グリッチ・アートとは

(現在は削除されてしまっていますが)ウィキペディア によるとグリッチとは下記のとおり定義されていました。

デジタルもしくはアナログで起こる美しいエラーのこと。デジタルにおけるコードやデータの崩れ、または電子機器が物理的にいじくられたことにより生じる不具合のこと。

簡単な例として、gifフォーマットの画像ファイルでのグリッチを示します。gifのコードを操作することで、原型を残しながらも画像を破壊することができます。
元画像


破壊後の画像


”Google”, produced by TAKANO shu


意図的に作られたエラーは「エラー」なのか?

上の例では敢えて「破壊」という表現を用いたのですが、これは「エラー」なのでしょうか。答えは勿論Noであり、この画像の作者は壊そうと思って壊したのであり、壊すことを狙い通り正しく遂行できた結果が上図です。グリッチをテーマとしている作品は今では多く見られるようになりましたが、実はそのほとんどが「真の意味でのエラー」によって生み出されたものではありません。作品がどう作られたかを想像して観ると、制作者はまず「こうすればグリッチできるぞ」という方法をあらかじめ発見しており、製作の段でその方法を用いる、というように工程は二段階に別れている事が多いと考えられます。作品が視覚的にどんな崩れ方をしていたとしても、その製作過程とは予習しておいた破壊の技法を間違う事なく「正しく」実行することであり、つまり作品が作られるまでの工程にエラーは存在していないことになります。 これらの作品は、果たしてグリッチなのでしょうか。

 

2種類のグリッチ

Iman Moradiはかつて、グリッチを次の2つに分類しました。


ピュア・グリッチ(pure glitch):故意に引き起こされたのではない、電子機器の故障・エラーのこと。美的観点は介入しない。
グリッチ・アライク(glitch-alike):ユーザーにより意図的に引き起こされた故障・エラーのこと。

グリッチ・アライク

この二つの分類基準は明確で、行為が「故意であったのかどうか」という制作者の意識にのみ注目しています。glitch-alikeを「(まるで)グリッチのような」と訳してみると、「グリッチとは別物」という区別を言外に主張していることになるのですが、つまりこの基準に従った場合、グリッチさせることを目指して制作したグリッチアートの作品は(グリッチ・アライクに分類されるため)グリッチではない、ということになります。

ピュア・グリッチ

Iman Moradiによるピュア・グリッチの定義は、「グリッチの効果に後から手を加えていない」ということではなく、制作者自身にとっても「予想せずに起きた」故障・エラーを指しています。電子機器の回路をいじくり回すサーキットベンディングは、そのシンプルな姿勢のあまりついピュア・グリッチに分類しそうになりますが、意図的な行為ということでグリッチ・アライクに仕分されます。(ただし Iman Moradi自身のこの分類の意図は恐らく、アートやデザインの文脈で語られるものがグリッチ・アライク、そうではなく誰の日常にも表れるただのエラーをピュア・グリッチ、と単純に区別しようとしただけのように思えます。)

故意と偶然

しかしここで敢えて、エラーが故意であったかどうか、を基準とした分類にこだわってみます。故意であろうが偶然であろうが、崩れて元の素材からかけ離れた形に変形されることはどちらも変わりはなく、繰り返しになりますが、違いは制作者の意識のみになります。ですので制作者の意識を気にせずに作品を観る場合、この分類は意味を成しません。純粋な視覚上の面白さを求めるのであれば、気に入る現象・状態が表れるまで何度もリプレイし、念入りに修正を加えたグリッチ・アライクな作品ではないと、鑑賞には耐えないかもしれません。 しかしコンセプトとしての強靭さは、作品自体が存在しながらもエラーを内包する、素の意味でのグリッチ、つまりピュア・グリッチにこそ宿る可能性を感じます。 ここから先、ピュア・グリッチのことを指し単にグリッチと呼びます。

グリッチの不条理性

ではピュア・グリッチによるグリッチ・アートとはどの様なものなのでしょうか。まずグリッチを作り出す側の視点で考え始めます。 ロサ・メンクマン(Rosa Menkman)は、今までに見たことのないグリッチを発見した瞬間の感情を、次のように表しています。
(原文はこちら参照。 )

しばらくの間圧倒され、「何が起きた?何がどうなってこうなった?」と自分自身に問いかける。 「グリッチか?」 しかし一度「グリッチ」と名付けたその瞬間、もはやその現象は「グリッチ」ではなくなってしまう。 (中略) ”グリッチ”と名付けられた瞬間、グリッチと呼んだその現象との向き合い方は変化してしまう。 グリッチとして保っていた均衡、つまり崩壊を最初に体験した時の威力を失ってしまい、新しい状態(それまでとは異なる認識のされ方)に消え去って行ってしまう。

エラーに遭遇したその一瞬のみが、その現象・状態がピュア・グリッチとして存在できる生存時間であり、次の瞬間にはすでにグリッチ・アライクに変貌してしまいます。なぜなら、一度認識されたエラーをもう一度起こすことは、もはやエラーではないからです。 認識したその瞬間に消滅してしまう。これはまるで「シーシュポスの神話」のでカミュの言う「不条理」そのものです。

 

グリッチの消滅 – ノーマルへの依存

ところで、なぜグリッチは消滅してしまうのでしょうか。 ある事象がエラーとして認識されるには、前提として、その事象が本来とるべき正常な姿という比較対象が必要になります。正常とのギャップこそがエラーの実体だからです。しかしそのギャップが大きく、正常からの変形の度合いがある一定以上に大きくなると、我々はその状態を「正常であった頃の」形とは別物として区別します。エラーにより変形した形がオリジナルとは別物と認識されたその瞬間、エラーは独立した新しいオリジナルとして誕生します。ノーマルとのギャップという概念は消失し、なし崩しに、エラーとして存在し続けることをその瞬間で終了します。

 

グリッチの消滅 – コモディティ化

もう一つ、エラーの消滅を決定付ける要素として、とりわけコンピューターの世界では、ほぼ全てのエラーが再現可能という事実があります。一度認識されたエラーは、手順を正しく踏めば、いつでも好きな時に発生させることができます。エラー生成のプロセスはエフェクター、プラグイン、ソフトウェアとしてツール化され、誰もが正しく、同じ効果を生成することができるようになります。かつてのエラーは、新しいソフトウェア製品の正常なアウトプットとして、これからは量産が可能になります。

 

グリッチと不条理

言い換えると、グリッチがグリッチとして生存し続けるためには、次の二つが必要条件となります。
・正常状態、オリジナルとの関係維持
・偶然性の維持

一つ目の条件の説明として、ファミコンカセットを半差しの状態にしてスイッチを入れた時に起こるあの現象を例にします。ファミコン・サーキットベンディング あの崩れた画面から、目の醒めるような強烈なグリッチの臭いを嗅げる理由は、それが単なる砂嵐ではなく、画面が崩れながらも「元のゲームの面影がまだ残っている」、あるいは「ゲームとしての操作は辛うじて可能」として、正常状態がまだ息をしているためと考えられます。
ここで、カミュによるカフカの評論を思い返します。カフカの作品の登場人物は皆、起こった事件に対し不安を掻き立てられながらも何とか解決しようと試みますが、具体的に何が問題なのかは彼らは語っておらず、ある程度は日常生活を続け、しかし結局は処刑されてしまいます。 ”変身”の主人公ザムザは、自分の体が虫になるという異様なことが起きているにも拘らず、サラリーマンの彼が気にしているのは、仕事場で怒られはしないだろうかという点です。 事態に対するザムザの当惑の程度は、明らかにバランスが取れておらず、カミュはこの不均衡にこそカフカの芸術の全てがある、と言い切っています。少し視野を広げてみると、松本人志や吉田戦車の世界の特異性もまたこの点で共通しており、彼らの創造する不条理な世界は前提として「日常」を必要としていることに気づきます。不条理という異常を、日常に如何に違和感なく同居させるかが彼らの基本的な姿勢です。正常を必要とする性質とは、これら不条理の性質とよく似ています。

(松本人志と吉田戦車をここでは不条理と一纏めにしていますが、追々このあたりは整理します。)

 

グリッチ・アートと不条理

カフカらの作品について上述しましたが、不条理を「表現した」作品と、不条理それ自体とは別物です。 不条理についてよく要約された文を、シーシュポスの神話から引用します。

風呂桶のなかで釣りをしている狂人という、よく知られた話がある。 精神病の治療法に独自の見解を持っている医者が「かかるかね」とたずねたとき、気違いのほうはきっぱりと答えた、「とんでもない、馬鹿な、これは風呂桶じゃないか」。

つまり論理の破綻です。話をグリッチに戻します。グリッチ・アライクではなく、ピュア・グリッチをアートとして成立させるということは、あらかじめ発生を準備されていたエラーではない本当の「間違い」を、いつ起こるかわからないその発生の瞬間に観客は立ち会い鑑賞する、ということになります。実現できれば、グリッチを生存させるための2つ目の必要条件である「偶然性の維持」を獲得できることになるのですが、これはどうあっても不可能な事に思えます。これまでグリッチと不条理の相似点を見ましたが、偶然性を保たねばならないという要請は、グリッチ・アートの成立それ自体を不条理そのものにしているように感じます。不可能、理解不能な状況において、不貞腐れず、それどころか目を見開いてその状況を快活に過ごすというのがカミュの「不条理な姿勢」でしたが、まさにグリッチ・アートを創造する行為とはこのようなものに感じます。もしグリッチ・アートが成立できた場合、それはもはや不条理ではなくなっていますが、これまで自分で新しいグリッチを探求する者だけの特権であった、グリッチに遭遇する瞬間のあの感覚を、鑑賞者と共有できるのかもしれません。
(Aug.2013 追記中)

 

Appendix. 抽象性からの脱却

善し悪しは別とし、グリッチをテーマにした作品は抽象への傾倒が強く、特に視覚上の効果を重視した作品ほどこの傾向は顕著になります。電子ファイルを破壊した場合、破壊の影響は、ファイルをデジタルに解釈した際のどの箇所に表れるのかを特定することは、基本的には困難です。画像ファイルであれば、破壊による影響範囲は画面全体に渡ることがほとんどであり、自然と、作品の形態は抽象に向かいます。多くの作品にとって、興味の対象はオリジナルの画像が何を映していたかではなく、破壊により作られるそのパターン、テキスタイルになっています。 破壊後に、破壊前のオリジナルの状態を忘れ去るのではなく、何らかの方法で破壊前の原型と連絡を取り続けることがもしできれば、それは副次的に、作品が抽象から脱して具体性を獲得できる機会になり得るかもしれません。

 

Appendix. グリッチ・アート

(そのうち整理する予定です。)

 



sound: Shusaku Hariya(unsorted-jp.com/)
damaged video/sound: kick.snare.kick.snare
overlapping video: Osada Genki(www.osadagenki.com/)
“Shintai Hyogen Workshop”(Tokyo Keizai University, Department of Communication)
Invitation by Prof. Tetsuo Kogawa(anarchy.translocal.jp/)

『”グリッチ”を利用する』| kick.snare.kick.snare インタビュー

 

 

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